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6/1母が肺癌余命2ヶ月〜1年と診断された。 奇跡を願い、食事療法など西洋医学以外の方面からも治療を試みる。その記録、母との思い出、闘病の様子を綴る。
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2008年08月21日 (木) |
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2008/08/21 02:13
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6/29 放射線打ち切り?
2005年06月30日 (木) |
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放射線の副作用が強く相変わらずほとんど食事を摂ることができない。
朝食はおAHCCをかけた分のお粥とささみを1切れ、昼食はお粥を一口、夕食はゼロ・・
昼食・夕食時のAHCCは食後の薬と一緒に飲んでくれた。
昨晩寝る前にAHCCが飲めそうだったら飲んで欲しいとお願いして帰ったんだけど、服用直後に吐いてしまったとのこと。
なので、今日は15時と寝る前のAHCCは無理に飲んでもらうことはできない・・
本当は末期癌の場合は3包じゃ足りないんだけどな。。
今週はじめから、放射線を当てている箇所に、湿疹が出始めた。
それ用の塗り薬を処方してもらっている。
午後主治医が来たが、とにかく吐き気がひどい為、放射線科の先生と相談して放射線は打ち切りにするかもしれないと話した。
それとアミノフリードを1日2リットルに増やすとのこと。
ゆっくり入れた方がいいので点滴は一日中することになるということだった。
全く食べれないわけだから、母もむしろその方が安心と思っているらしい。
私としては放射線も抗ガン剤も見合わせることになってしまい、なんとも複雑な思いだった。
でもそれよりも少しでも食べれるようになって、免疫療法につながる食品を思いっきり試してもらった方がいいのかもしれない、そうも思う。
どうせ西洋医学では助かる見込みは0%なのだから・・・
今日病室に入ったとき、母は寝ていたのだが、ちょうど夢を見ていたらしく、昼食時その夢の話をしてくれた。
誰かわからないけどお客さんが来ることになっていて、母が私に「お持てなしする料理はあるの?」と聞くと、私は「冷凍庫にカエルがあるから、カエルの唐揚げにするわ」と言ったらしい。(≧ω≦)b
私が上海に住んでるからそんな夢をみたのかな?(笑)
とにかくその話を聞いて私は笑ってしまった。
(ちなみに私はカエルは食べたことないです!)
母もなんでこんな夢見たんだろうね、と笑っていた。
それと月曜日からお向かいのベッドに入った方が、世話好きで明るい方なので、その人があちらこちらに話しかけるたびに母は笑っていた。
今朝母にも腰が悪いなら一緒に散歩でもしませんかと話しかけてくれたらしい。
母は吐き気がひどいためそれどころではなかったようだが・・
その方はポリープを取るために入院されたみたいなんだけど、もうすっかり元気になって、今日は廊下で踊っていた。(笑)
よく見えなかったけどあれは太極拳だったかな。(=^m^=)
本当に面白い人だわ〜
母は吐き気に悩まされてはいるけど、表情は昨日より明るかったように思う。
それだけでも私には救いだった。
食後の薬を服用したあとはベッドにもたれかかり安静にする。
私は今日も母が吐かないように気を送る。
今日は夕食前にトイレで吐いてしまったのだが、何とか食後に吐くことはなかったのでそれだけでも安心した。
先週まではご飯が食べれていたから、マクロビのおかずやスープを作って持っていくこともできたけど、今はそれさえもしてあげられない。
散歩もできなくなってしまったし、今週から一気に病状が悪化してしまったようで、すごくせつない・・
これからどうなるんだろう。。
よくなると信じている母に奇跡が起きますように・・!
2005/06/30 01:00
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6/28
2005年06月28日 (火) |
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吐き気がひどくなっている。
昨晩も20時頃吐いてしまったとのこと。
朝食はお粥とかまぼこを2切れ食べたが吐かずに済んだらしい。
昼食に母の好きなたこ焼きを買っていったが、一つも食べられない。
ちょど12時頃吐き気止めの錠剤を処方されたので、30分してから昼食を摂る。
お粥にAHCCをかけ1割ほどなんとか食べた。
すごく気持ち悪そうだったがどうにか吐かずに済んだ。
13時から30分間テレビを見た。
間もなくリニアックに呼ばれる。
今日はめずらしく午後だったが、母は私がいるときに行きたいらしく、今後は午後受診できるように頼んでいた。
リニアックの後レントゲンを撮り病室へ戻った。
車椅子で行ったのだが、戻ると疲れたとすぐベッドに横になった。
先週までは一人で歩いてリニアックに行っていたのに、急激に体力が落ちてしまったのかな・・
15時、AHCCを服用して欲しかったが、寝ている母を起こすことができなかった。
結局母は17時前まで寝ていた。私も1時間半くらい昼寝をした。
17時半、吐き気止めの薬を飲む。
18時夕食、私は無理に食べなくてもいいよと言ったのだが、AHCCを服用するためにお粥を少し口にしてくれた。
しかし約3分後、母は座ったままもどしてしまった。
頼みのAHCCをもどしてしまった・・・
このままだと0.1%の可能性もなくなってしまう。
今日から
アミノフリード
の点滴が入っていたので、食べれなくても飲めるなら薬だけでも飲むように言う。
その時、AHCCももう一度飲んでもらった。
母はいつものようにベッドの足元の方にもたれかかりしばらくじっとしていた。
少しでも動くと吐き気をもよおすらしい。
何とか吐かないでいてくれるように目を閉じている母を見つめ念じた。
時々顔をしかめる様子があったが、私が帰る19:20分までは取りあえずもどすことはなかった。
私が帰るとき母は学校へ行こうを見ていたが、楽しそうに見ていたし、私が帰るときも表情は明るかった。
何とか吐かないでいてくれるといいんだけど・・
そして明日は少しでもご飯が食べられますように。
2005/06/28 23:13
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6/27 せつない
2005年06月27日 (月) |
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今日もとても気分が悪そうだった。
昼食はお粥3割弱とおかずに少々手をつけただけだったが、持参した昨晩叔母が炊いてくれたスペアリブは2つほど食べてくれた。
一緒に持っていった冷や奴は手をつけなかった。
食後はかなり気分が悪そうで、顔をしかめる場面が度々あった。
私はまた吐くのではないかとかなり心配したが、吐きたいというより、食道がヒリヒリするのが辛いと言っていた。
母が苦しんでいる間、私は母の食道当たりを凝視し、早くスーッとなるよう念じた。
食後の不快感を抑える薬はないし、変わってもあげられないし、私には念じたり信じたりすることしか出来ない。
こんな時気功でもできたならなぁと思う。
30分くらいすると落ち着いてきた。
テレビを見る気力が出てきたので、一緒にファイトとコスメの魔法を見た。
14時前くらいから母は昼寝をした。
すごいいびきをかいて寝ていた。
起きてから母に言うと、全然自分ではわからなかったと言っていた。
15時にプリンにAHCCをかけて食べてもらった。
食後が心配だったが、昼食後のように気持ち悪くはならなかったようで安心した。
母は4人部屋なのだが、他の方たちは消化器内科で手術が必要だったり、痛みに苦しんでいる人もいる。
母はその人たちの症状と比べて「お母さんが一番軽いかもね」と言っていた。
私はちょっと言葉に詰まったが、「お母さんは副作用が辛いだけだからね」と答えた。
放射線が終われば良くなると信じている母。
すごくせつない。。
夕食はお粥2割とおかず1割食べたか食べないか程度。
とにかく吐いてしまってはマイナスになってしまうので、無理には食べさせられない。
気分は悪そうだったがしばらくベッドの足元の方にもたれかかっていると、比較的早く回復した。
昨日は遅くなってみゅうちゃまを散歩してあげられなかったんで、今日は19時過ぎに病室を出た。
母はフレンドパークを見ていた。
2005/06/27 23:51
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6/26 嘔吐
2005年06月27日 (月) |
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朝から気分が悪かったらしい。
朝食は玄米のお粥をほんのちょっと食べただけだった。
午前中も横になっていることが多かったが、兄の仕事着のズボンの裾上げをしたりする場面もあった。
昼食もほとんど食欲がなかったが、人参スープとお豆腐を食べていた。
お豆腐は美味しいと食べていたんだけど、食後の薬を飲み、席を立つと洗面所で吐いてしまったらしい。
(叔母が見ていてくれた)
ベッドに横になったが、少しスッキリしたと言っていた母。
私はこれからもこういうことが続くようだと、AHCCを服用することができないし、母はどんどん衰弱していくのではないかとかなり不安に思う。
ほとんど食事を摂れていないこともあり、早めに病院に戻ることにした。
14時過ぎ病室に入り、血圧や酸素濃度を見てもらったがそれは正常だった。
16時頃、水分補給の点滴が入った。吐き気止めも入れてくれたとのこと。
点滴の針を刺してもらってるとき、MさんとMさんの長女家族が来てくれた。
小さい子供もいたのでちょっとうるさかった。
母は気分が良くなかったので静かにしていて欲しかった。
Mさん一家は20分ほどで帰っていった。
夕食が食べれるか心配だったが、AHCCをかけてお粥を3割ほど食べてくれた。
おかずは一口二口手をつけるに留まった。
また嘔吐するのではないかと心配したがその様子はなかった。
点滴に入れた吐き気留めが効いたのかな。
食後は鉄腕ダッシュとバレーボールを見た。
母は頑張っている日本チームを見ていると元気が出ると昨日言っていた。
私はバレーボールが終わるまで母といた。
終了と同時に部屋を出たが今日は随分遅くなってしまった。
家に帰ると、叔母が、帰りが遅いからお父さんが心配して何度も一階と二階を行ったり来たりしてたよと言った。
父は私の部屋に来ると、電話くらいしろと捲し立てた。
私は何かあったらこっちから電話するんだから、少しはこっちの情況も考えてよと言ったら、父は怒鳴って、「明日からおまえは病院に行かなくていい!おれが毎日いくからおまえは行くな!」
と言って部屋を出ていった。
私はお風呂に入る準備をしていたが、何もする気がなくなってしまった。
こんなこと思っちゃ悪いけど、なんで病気になったのが父じゃなく母なんだろう・・・と。
私は衣装ケースを下にかなり変な形でうつ伏せになってちょと泣いてしまった。
別に父にすごく腹が立ったとか、母の今後を思ってというわけではなく何となく涙が出てしまった。
今日はお風呂に入らずそのまま電気を消してベッドで寝た。
夜中目が覚めて3時頃お風呂に入った。
朝7時、父が部屋に入ってきて手紙を置いていった。
謝りの文面が綴られていた。
2005/06/27 11:03
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6/25 外食
2005年06月27日 (月) |
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母が入院して以来、初めて全員で外食できた。
昼に近くの蟹料理のお店に行った。
父と兄は蟹の食べ放題、母・叔母・私はミニ懐石料理を食べた。
母は懐石料理にはほとんど手をつけた様子がなかったが、父から蟹を剥いてもらって食べていたらしく、お腹一杯だと言っていた。
叔母が来ていたので、不自然になることなく写真を撮ることができた。
叔母もカメラを持ってきていたので何枚か撮ってあげた。
夕食は昨晩の残りとサラダなどを食べた。
母には玄米のお粥も出したが、よそった分だけ食べてくれたので、病院にいるときよりは随分食べてくれてるんで安心した。
食後も母はずっとリビングのソファにいた。
みんなでバレーボールを見たり、ドラマを見たりした。
今日は熱も出ることはなくすこぶる調子が良さそうだった。
本当に元気な頃の母のようだった。
2005/06/27 10:25
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6/24 2回目の外泊
2005年06月25日 (土) |
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今週も無事外泊出来た。
昼食は3割ほどしか食べられなかく心配したが、昼食後は元気そうで外泊を楽しみにしている様子だった。
午前中からの点滴が終わり、15時前母と共に病室を出た。
その足で母とスーパーに寄った。
母はいつもそうだったようにカートを押して歩いた。
私は母の後ろ姿を見ながら、ここにいる誰も母が余命数ヶ月だなんて思わないだろうなぁ、だってこんなに普通に歩いてるんだもん・・・、これから何十年もこうして母と買い物に来れますように・・・そう思った。
家に帰ると叔母が豚と野菜の煮物を作っていてくれた。
私が朝作った高野豆腐と根菜の煮物(真空鍋に入れておいた)もちゃんと煮えていた。
お刺身も買ったし、夜は食べる物がいっぱいだった。
夕方母はお風呂に入った。
あまりお湯に浸かるのはよくないので、膝下くらいまでお湯を張り、お湯の中で体を洗っていた。
窓を開けて、換気扇も回していたが、浴室内が暑くなってきたので、途中早く出るように促す。
無事お風呂から上がり、夕食までの間、リビングでみんなでくつろいだ。
夕食は母がどれくらい食べれるか心配だったが、病院食とは違うご馳走に箸も進んだらしく安心した。
食後はまたリビングに集まりテレビを見ていた。
20時過ぎメロンを口にしたら、食道にしみたらしく少し気分が悪くなってしまった。
21時から母の好きな泉ピン子のドラマがあったのでそれを楽しそうにみていた。
21時半、落ち着いた様子だったのでお湯でAHCCを飲んでもらう。
母は今日ほとんど咳をすることもなかったし、こうして家にいると全く健康でごくありふれた日常のような気がする。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう・・・
癌だなんて嘘であればいいのに・・
母は家にいた方がずっと元気そうだ。
今は放射線しか受けていないし、通院で治療できるようになればいいのになぁ。
2005/06/25 15:35
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6/23
2005年06月24日 (金) |
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昼前に病室へ入る。
昼食はお粥5割、おかず7割ほど食べてくれた。
朝作って持っていった人参スープもおいしいと飲んでくれた。
飲んでみてもらってから何のスープかわかる?と聞いたら、かぼちゃでしょと母は言っていた。
母はあまり人参が好きじゃないので心配したけど、人参臭くなく本当にかぼちゃみたいだと言っていた。
無農薬野菜の人参を使ったのがよかったかな。
昼食後、ファイトとコスメの魔法を見てから母と私は昼寝した。
私は30分くらいで起きたけど、母はいびきをかいて寝ていた。
何気ない瞬間に、母は生きていると感じる。
こうしてずっと生きていて欲しいな。
午後主治医が来て、朝の採血は問題なかったので週末外泊の許可をもらう。
私は最近の母の情況を聞こうか迷った。
放射線の効果はでているのか、心膜炎の情況はどうか・・
でも医師の答えを聞くのが恐い。
悪くなっていると言われるのが恐くて話をすることを避けてしまっている。
兄に聞いてもらいたいんだけど、しばらくは週末しか休みがないから、やっぱり私が聞かなきゃだめかなぁ・・
今日は点滴が終わるのが遅かったので、17時頃散歩に出た。
Sさんが今日手術だったので、無事に終わったか見に行こうとエレベーターで下へ降りた。
Sさんは手術室から戻ったばかりで個室に入っていた。
麻酔は覚めていたが布団を被って震えておりほとんど話はできなかった。
一週間くらいで落ち着くかな。早く回復されますように。
夕食は昼よりだいぶ量が多かったせいかおかずは4割ほどしか食べれなかった。
それでも2,3日前よりはよくなったかな。
今日は昨日届いたライト付ヘッドルーペを持っていったんだけど、早速それを使って食後読書をしていた。
私も昨日図書館で借りてきた本を読んだ。
19時過ぎ病室を後にした。
母は顔を洗うついでにと洗面所まで出てきてくれた。
おやすみ、また明日ねと言って母と別れた。
明日無事に外泊出来るといいな。
2005/06/24 00:11
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6/22 叔母の付き添い
2005年06月22日 (水) |
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今日は母が入院している病院で看護士をしている友人とランチの約束をしていたので、母の付き添いは叔母にお願いした。
11時過ぎ叔母と病室に入る。
母は笑顔で迎えてくれた。
昨日は家にいて大丈夫だったかと叔母に尋ねていた。
薬を飲むお湯を変え、叔母にお茶を入れる場所を教え、叔母が作ってくれた筑前にとメロン・15時の豆乳プリンを置いて、足早に病室を後にする。
友人とランチをし、一度家に帰り昨日録画したビデオと見、郵便局・図書館に行く。
帰ってからみゅうちゃまを散歩させ、夕食の支度をし、19時前病院に叔母を迎えに行った。
病室へ入ると母と叔母は話をしていた。
病室の窓から駐車場が見えるんだけど、そこに止まっている一台の車が午前中からずっとハザードがつけっぱなしらしく、二人は面白おかしくその車を注視していた。
私は食事が食べられたか母に尋ねたが、病院食はちょっとしか食べれなかったとの答え。
でも持っていった筑前煮はとメロン2切れは食べてくれたそうだ。
今日から5分粥食にしてもらったのだが、お粥まで5分粥になってしまいそれが食べにくいとのことだったので帰りがけナースステーションに寄ってお粥だけは全粥に戻すようお願いして置いた。
帰り母はエレベーター前まで送ってくれた。
ICカードを見るとほとんどテレビをみていない様子だったので叔母に聞いてみると、二人は故郷の話で盛り上がっていたとのこと。
叔母は話し好きなので母も楽しかっただろう。
同室の患者さんには少しうるさかったかもしれないけど・・(^-^;
明日はいつも通り私が付き添いする予定だ。
2005/06/22 23:32
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6/21 食欲減退
2005年06月21日 (火) |
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いつも通り昼前に病室に入る。
リニアックは最近9時頃受けているようだ。
今日もまた一人で行ってきたとのこと。
フラフラする時は絶対一人で行かないようにと念を押す。
昨日叔母が送ってくれたお肉に豚足が入っていたのだが、母の大好物なので皮を刮げて少し持っていった。
それと昨夜切ったメロンがすごくおいしかったのでそれも持っていった。
母は両方ともおいしいと食べていたが、病院食自体は2〜3割しか手をつけなかった。
午後Mさん夫妻と真ん中のお姉ちゃんがお見舞いに来てくれた。
そのお姉ちゃんは43歳なんだけど、すっごい若くてびっくりした。
BAさんしてるだけのことはあるなぁ〜
15分ほどおしゃべりしてMさん達は帰っていった。
母はエレベーター前までMさん達を送った。
病室に戻り少しすると15時だったので、昨晩作った豆乳プリンにAHCCをかけて食べてもらった。
前回作った時は緩すぎたので今回水分を減らしたら今度は固くなりすぎてしまった・・(⌒ ⌒;
それに甘さも足りなかったようでもうちょっと甘かったらよかったねと母は言っていた。
次はちょうど良いのが作れるといいなぁ。
今日は叔母に家にいてもらっていたんだけど、母は自分だったらよそのだんなと一緒に家にいるのは嫌だから、叔母も嫌な思いをしているんじゃないかと心配していた。
ちょっと電話をしてみようと公衆電話まで歩き、ついでに少し散歩に出た。
そんなに歩く気はなかったようで、いつものように病室のある階をぐるぐる回りベッドへ戻った。
今日はいつものようにフラフラしないと比較的しっかりした足取りで歩いていた。
ベッドをしばらく起こしていると歩いたときフラフラしないのかもしれないと母は言った。
今日の夕食は少し遅れた。
母はテーブルの前に座って夕食を待っていた。
食欲があるのかな?と思ったが食べ始めると実際またおかずは3割弱程度しか食べれなかった。
今週からおかずを普通食に戻してもらっていたんだけど、先週までの5分粥食の方がまだ食べられていたので、また5分粥食に戻してもらおうと言ったんだけど、どっちにしてもどうせそんなに食べられないんだから変えなくていいと母は言う。
私は食べれなくていいなんてことは絶対ないんだと母を説得し、明日から5分粥食に戻してもらうことにした。
少しでも食べられるようになるといいんだけどなぁ。
夕食後テレビをつけ、母は伊東家の食卓を見ていた。
母の好きな番組なので楽しそうに見ていた。
私は20時前病室を後にした。
2005/06/21 23:53
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6/20 妹と対面
2005年06月20日 (月) |
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いつも通り昼前に病室へ行く。
治まっていた放射線の副作用が昨晩当たりから慢性化してきたとのこと、食欲がだいぶ落ちてしまった。
昼食も夕食もお粥5割、おかず3割程度しか食べれなかった。
リニアックは9時頃呼ばれたそうなのだが、いつもは車椅子で看護士さんに付き添われて行くのに、今日は一人で行ってきたとのこと。
呼ばれたけど看護婦さんが来ないから一人で言ってきた、と母。
完全看護なのにこんなことじゃ困るなぁと思ってしまった。
昼食後、母はテレビを見ていたが、私はすごく眠くてコスメの魔法だけはかろうじてみたけど、15時くらいまでほとんど寝ていた。
今日は神戸から母の妹がくることになっているので、母は叔母がちゃんと東京に着いたか、電話は来たか、しきりに気にしていた。
16時前庭に行ってみようと言っていたのだが、実際歩き出すとフラフラするとのこと、じゃあ休憩室に入る?と言ったのだが、前に向かいのベッドにいた方が今日から手術入院されているので、その方の所に行ってみようということになりエレベーターで下に降りた。
その方は西病棟の窓側のベッドだったが、西日が強く、ここは暑くてダメだわと言っていた。
今日あった検査が大変だったことや手術のことを話されていたが、その内レントゲンに呼ばれ看護士さんと病室を後にした。
母と私も同時に部屋を出、病室へ戻った。
人と会うと少しでも気が紛れてよい刺激になる。
その方も同じ肺ガンなのだが、まだ初期のようなので手術を受けることで回復されるといいなぁと思う。
明るい方だから母の入院生活も少しでも楽しくなるといいな。
17時半兄と叔母がやってきた。
久々に妹に会えて母はとても嬉しそうだった。
叔母は楽しい人なので母もよく笑っていた。
兄は18時過ぎに先に帰り、私と叔母は20時前に病室を出た。
2005/06/20 22:37
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6/19 病院へ
2005年06月19日 (日) |
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食前に飲む食道をを保護する薬を飲む前に水分を摂ってしまったため、朝食前に気分が悪いと横になった。
少し落ち着くと今朝作った玄米のお粥とひじきを少し食べてくれた。
昼は今日もKさんが差し入れしてくれた。
今日はアサリどんぶりを作ってきてくれた。
母はそんなに量は食べなかったがおいしいと食べていた。
夫にお母さんの写真をよく撮るように言われていたんだけど、
自然な情況で撮れるように、みゅうちゃまに天使の羽根のお洋服をつけてもらってちょっと抱っこしてとみゅうちゃまを撮る振りをして母も一緒に撮った。
あまりいい写真は撮れなかったけど・・
みゅうちゃまも嫌がって逃げちゃうし。(⌒ ⌒;
15時前家を出た。
先にホームセンターに寄って花を買いそれから病院へ向かった。
ベッドに横になって少ししてから熱を測ると6.1分と平熱だったが、食後の検温では微熱があった。
短時間でいきなり上がったり下がったりするんだよなぁ。。
食事中はまた咳もしていたし。
家ではほとんどしていなかったのにな。
夕食は4割くらいしか食べれなかった。
これ以上食べると吐きそうと言うもんだから無理には勧められない。
食後も副作用で少し気持が悪い様子だった。
気分も落ち着き19時から鉄腕ダッシュを一緒に見た。
母はとても楽しそうに見ていた。
19:45頃私は病室を出た。
母は顔を洗うからと洗面所の前で見送ってくれた。
エレベーターに乗る前母に手を振り病院を後にした。
家に着くとみゅうちゃまが外に繋がれっぱなしになっていた。
父はというと・・部屋でぐうぐう寝ている。
みゅうちゃまを出したことをすっかり忘れていたらしい。
母が帰ってきた日にまた眠れなかったと言い翌日すぐ精神安定剤をもらいにいったのだが、それのせいか母がいる間、ずっと言動が支離滅裂だった。
母を心配させて、、、、もういい加減にしてほしい。
父は私が一番大変なんだからと言っていたが、一番私にストレスかけてるのはあなたですから!!!残念!
と言ってやりたい・・・(-゛-メ) ヒクヒク
2005/06/19 23:20
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6/18 外泊2日目
2005年06月19日 (日) |
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母の様態は実に順調だった。
熱もないし、咳もあまり出ない。
21時前後に友人や親戚と3人と入院前と全く変わらない様子で元気に電話していた。
その内の親戚の方は母の病状を知っているが、あまりにも元気そうで驚いたことだろう。
今日はお昼にKさんがあんかけ焼きそばを作って持ってきてくれたし、Tさんも午後お見舞いに来てくれた。
みんな母が病院にいた時よりもずと元気そうで「病人には見えないね」と言っていた。
本当に母は病気なのか???
こんなに元気な母をみていると私は錯覚を起こしそうになる。
今日ロシアの病気を治す力を持つ少女が日本テレビで紹介されていた。
この女の子のことは前にも見たことがあった。
彼女は病気の人と健康な人の体と比べ透視し、悪い箇所は黒く見えるのだそうだ。
そしてその黒い部分を自分の中で消していく。
そうすることで病気を治すという不思議な力があるという。
私には超能力なんて全くないけど、母の悪い部分を砕いて小さくしてそして消す、そういうイメージを持って念じてみようと思った。
お母さん、頑張って一緒に病気を克服しようね!!
父のこと、あまり書きたくないけど、また昨晩眠れなかったそうで今朝一番で安定剤をもらいに病院に行っていた。
夜寝る前に飲んだらしいのだが、飲んでから一階でウロウロし、奇怪な行動をとり、母も妙に思ったらしい。
余計なことも言ってくれるし、全く危なっかしくってヒヤヒヤする。
だいたい一日眠れなかったくらいで、普通病院に行くか???
なんでこんなに弱いんだ・・・
母より父のことで疲れるわ。。
2005/06/19 00:34
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6/17 外泊1日目
2005年06月17日 (金) |
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午後の検温で37.5度あり外泊が危ぶまれたが、肺に疾患がある患者の場合特に不調がなくても微熱が出ることがあるということで、外泊しても構わないと許可をもらった。
家に着くと平熱に戻っていたので一安心。
少し咳をする場面もあるが全体的には落ち着いている。
少しは動かないとと病人なのに洗濯をしたり、食事の後かたづけを手伝ったりする母。
そういう性分なんだねぇ。(*=´▽`=*)
2005/06/17 22:42
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6/16 外泊許可
2005年06月17日 (金) |
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病院に着くと母が昼食を摂っているところだった。
私は急いでふかしたジャガイモをだした。
小さいのを2つ持っていき、1つは自分で食べるつもりだったが、母が思いがけず2つペロリと平らげてくれて、ちょっと苦笑いだった。
じゃがいもは結構お腹にたまるが、病院食自体も半分ちょっと食べてくれた。
今日もリニアックは午前中に終了していた。
朝一番で担当医師も情況を見に来てくれたそうだ。
コスメの魔法が始まると間もなくシーツ交換が入った。
まだ点滴中だったので点滴台と一緒に廊下に出た。
母はちょっと歩こうかなと言ったが、点滴台の動きが悪かったので私が点滴を手に持って少し歩いた。
ナースステーションの前を通ると一人の看護士さんが心配して声をかけてくれた。
点滴を持ち上げて歩いている私が異様だったようだ。(笑)
病室を覗くとまだ終わっていなかったので、小さい方の休憩室に腰を下ろした。
母はそこに飾られていた造花の花を少しもらって、自分の花籠に挿しちゃおうかと言った。
母はすぐこういうことをする人なんだ・・(⌒ ⌒; 阻止したが。(笑)
病室に戻るとすぐコスメの魔法を見たが今日はちょっとしか見れなかった。残念。
14時少し前、今度はお掃除の方が見えた。
木曜日は14時から貸し出し図書が来るので、ついでに下に降りてみることにした。
母は読みたかった本がちょうど見つかりそれを一冊借りた。
そのあと休憩室に入り少しの間本を読んでいた。
母は老眼がきつく、眼鏡もあまり合わないので、ライト付ヘッドルーペを買ってあげることにした。
先週は具合も悪く、活字を見れる状況じゃなかっただけに、少しでも楽しみが見つけられて私も嬉しい。
ここの本は何時返してもいいことになっているので、時間に縛られずゆっくり読むことができるのも良い。
休憩室で今週末外泊できるかどうか話をしていた。
私はそれなら明日介助をつけてもらってお風呂に入ったらと母に言うと、(母はあの事件以来恐くてお風呂に入っていない)それなら家で入るからいいよと言った。
私は家で何かあったら対処できないんだから、絶対家ではお風呂入らないでと言った。
本当にあの時はこのまま死んでしまうのではと恐しかったのだ・・
母が納得したので私は明日洗髪だけ介助して欲しいと今日の担当の看護士さんに頼んだ。
病室に戻り少し経つと15時だったので、今朝作ったマクロビデザートのバナナ豆乳のプリンを出した。
参考サイト様
ちょっと寒天の量が少なかったのが固まりが悪かったが、母は初めてにしてはおいしいじゃんとAHCCを振りかけ食べてくれた。
残りは私が食べたが、あまりおいしくなかった。(笑)
持っていったハチミツを結構たっぷりかけてやっと美味しく感じられた。
間もなく看護士さんが来て、明日できるかまだわからないけど介助の件お願いしておきましたからと言いに来た。
出来るかわからないんだぁ〜・・・・と私は思った。
その時、週末外泊できるか医師に聞いて欲しいとお願いした。
医師から外泊許可が出たが、その時体内酸素濃度を測ってもらうと、95%とやや少な目であった。
(この時点で酸素をはずして3時間経過していた)
その後また看護士さんがやって来て、93%を下回ったら酸素をいれなければいけないが、今はまだ大丈夫だからと言いに来てくれた。
担当医師が来た。
食事を摂れているようなので、点滴もしなくてもいいし、金〜日にかけて2泊外泊してよいが、酸素の情況がまだクリアできていないので、明日情況を見て外泊許可の用紙を渡しますと言った。
母は外泊する気満々になっているので、外泊出来ないとなるとショックだろうな・・
なんとか叶いますように。。
夕食中、また母は咳をしていた。
昨日も夕食中咳をしていたんだよなぁ。
昼食の時は大丈夫だったのに、なんでだろう。
母は治まったと思ったのにまた咳が出る、何でだろうと不思議がっていた。
食後横になると咳は落ち着いた。
私は19時5分前に病室を出た。
母はエレベーター前まで見送りに来てくれた。
母はこんなに元気なのに、本当に末期癌なんだろうか??
母を見ていると全くそんな感じを受けない。
このままどんどん元気になるんじゃないのかな、癌は小さくならなかったとしてもこれ以上ひどくならなければ、ずっとこんな風に過ごせるのではないのかな、そう思ってしまう。
こんな穏やかな日があと何十年も続くといいな・・・
2005/06/17 00:23
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6/15
2005年06月15日 (水) |
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昨日母が「銀だこ」のたこやきが食べたいと言っていたので、今日買ってから病院に向かったが、あいにく昼食には間に合わなかった。
それでも一つだけは口にしやっぱりおいしいね、と食べてくれた。
兄が午前中から来ていたが14時頃帰っていった。
15時過ぎ掃除が入ったのでそのついでに母と私は散歩に出た。
今日は歩き回らず、ずっと休憩室に座り、先日いただいたびわのゼリーを一緒に食べた。
途中十数人の人たちが一斉に休憩室に入ってきた。
中には泣いている人も数人いた。
私は最初辛い告知を受けたのかなと思っていたが、どうやら身内の方が亡くなられたようだった。
母も気づき、誰か亡くなったのかね、と言っていた。
私は他人事でないようで、イヤこれは他人事だと自分に言い聞かせる。
もしかしたら数ヶ月後に自分がこの家族と同じ様な涙を流している、そんなことは絶対ない、自分の考えをうち消す。
16時、病室に戻った。
担当医師が来た。
調子はどうですかといつものように母に尋ねる。
母はお腹が緩いと医師に話をしていた。
そんなことは聞いていなかったので、ちょっと驚いた。
咳止めの薬にそういう要素が入っているということで、あまり続くようならその薬を中止するとのこと、お腹が落ち着いて食事も半分以上食べられるようなら点滴(水分補給)を止めるとのことだった。
18時、夕食の時間だったが、なぜか母の分だけ飛ばされていた。
尋ねると栄養士の方のミスだったようで、約20分後直接持ってきてくれた。
夕食はまぐろのお刺身が出た。
お刺身が出たのは初めてだったので、遅れたからお詫びのつもりかしらね、と二人で笑っていた。
今日はほとんど咳をしていなかったが、食事中何度か咳をする場面があった。
今日はお粥5割、おかず7割くらい食べたが、おやつのビワがまだお腹に残っていたせいもあり、食べ過ぎた食べ過ぎたとすぐベッドに横になった。
ちょっと気持ち悪そうな表情もしていたので心配だったがすぐ落ち着きを取り戻した。
19時、面会時間終了と同時に病室を後にした。
母はエレベーター前まで送ってくれた。
2005/06/15 23:26
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6/14 穏やかな日
2005年06月15日 (水) |
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今日も母は調子良さそうだった。
リニアックは午前中に終了していた。
ちょうど昼食だったので、持ってきたマイタケのバター醤油炒めを出した。
母はおいしいと食べてくれた。
病院食も半分くらい食べた。
昼食後だったか父がやってきた。
来ると聞いてなかったのでびっくりした。
父は今日野菜の苗を植えた話しなどを母にし、10分くらいで帰っていった。
14:30頃だったか担当医師が病室に来た。
母は医師に食道のむかつき感もなくなり、だいぶ食事が摂れるようになってきたと話した。
医師はご飯が食べれるようなら明日お薬の点滴(抗ガン剤)を投与しましょうかと言う。
もうちょっと様子を見てというようなことも言っていたので明日の投与はないと思うんだけど・・どうなんだろう。
なんだかよくわからなかったなぁ。
母の前であんまり突っ込んだことも聞けないし。
15時、昼に出たヨーグルトと一緒にAHCCを服用してもらう。
普段はヨーグルトは食べない人なのだが、だいぶ体のことを考えるようになったらしい。
納豆はどうしてもダメみたいだけど・・(^-^;
その後、母は散歩に行こうかなと自分から言い出した。
今日はここ最近で一番調子がよいのを私もわかっていたので母の言葉は嬉しかった。
庭園へ行くほどの自信はなかったで、昨日と同じく病室のある階をぐるぐる周り、まだベッドに入りたくないと言うので、休憩室に行き窓から霞んだ海をずっと見ていた。
そろそろ息苦しくなって来たというので45分後くらいにベッドに戻った。
母は随分散歩していたね、と嬉しそうに言った。
いつもこんな風にできたらいいなぁとも言った。
私もこんな穏やかな日々がずっと続けばいい、なんだか本当に続きそうだと思った。
夕方は昨日買った雑誌を見ながらまた料理の話しなどをしていたが、夕食までの間少し昼寝もした。
18時夕食。
母は6割くらい食べてくれた。
だいぶ食べれるようになって本当に嬉しい。
栄養つけて病気にうち勝って欲しいな。
夕食後外を見ながら私の車の話や私の夫の上海勤務がいつまでなのかそんな話をした。
私は今日は明るい内に帰ってみゅうちゃん(猫)散歩させるわ、と言い19時前に病室を出た。
母もみゅうちゃんが放って置かれてるのを常に不憫に思っているので、そうしてあげて、と言った。
玄関を開けるとみゅうちゃまが下駄箱の上で待ちかまえていた。
その足で散歩に出る。
みゅうちゃまはお向かいの猫ちゃんと睨めっこしたり、飛んでる虫をはたいたり(笑)、突然走り出したり、本当に笑える。
みゅうちゃんを病室に連れて行けたらなぁ。母も喜ぶのにな。
2005/06/15 00:22
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6/13 治療内容変更
2005年06月13日 (月) |
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病室へはいると点滴がちょうど始まる所だった。
栄養剤の点滴だ。
今日のリニアックは午前中に終わったとのことだった。
今日から食道の副作用を抑える薬が2種類増えた。
そのお陰ですっきりとまではいかないがだいぶ不快感は消えたようだ。
昼食は3分の1程度だが昨日よりも食べる量が増えた。
食後の不快感もあまりなく自分からテレビを付け、「ファイト」と「コスメの魔法」を見た。
テレビを見ていると先月分の支払明細が来た。
5/31からの入院だったので一日分だけだったが、検査があった為17000円余りの請求金額だった。
一階の会計まで支払いに行き、その後4階のコンビニで雑誌を買った。
帰りは4階から9階まで階段を使った。
来るときも1階から9階まで階段であがった。
かなり運動不足なのでこれで少しは運動になるかな。
明日筋肉痛かも・・(⌒ ⌒;
戻ると間もなくKさんがお見舞いに来てくれた。
まいたけの天ぷらを持ってきてくれた。
Kさんは母に、随分顔色がいいじゃん、唇なんか口紅塗ってるみたいだよ、といった。
母も今日は調子が良いと言った。
しばらく話をしているとお掃除の方が見えたので、私とKさんは席を立ち、ついでに人間ドックを受ける予定があるというので一緒に2階のドッグ受付へ行った。
戻ると担当医師が診察に来ていた。
私はお茶を入れに席を立った。
休憩室に入り湯飲みを洗っていると医師が来て、治療方針に変更があるのでちょっとお話いいですか、と私に話しかけてきた。
また何を言われるんだろうと気乗りしなかったが医師に続き多目的室に入った。
放射線による副作用は本来なら1,2週間後に出るものなのだが、母はそれが出るのが早すぎるとのこと、放射線の医師によると精神的な面も関係しているのかもしれないというが、放射線治療が進めば副作用がもっと辛くなる可能性が高いので、この情況で明日抗ガン剤投与をするのは無理であると。。
抗ガン剤投与による副作用は一回目の投与では出ていなかっただけに残念だ・・
医師は双方の副作用により食事を全くとれなくなることの方が危険だとも言った。
今後放射線による副作用がよほど改善しないかぎり抗ガン剤投与はできないそうだ。
これによってどのような影響が出るのだろう・・・
またもや不安が過ぎる。。
お茶を入れて戻り、Kさんにもお茶を勧めた。
私はKさんが持ってきてくれたまいたけの天ぷらを2つ食べた。
Kさんは17時前までいてくれたので今日の午後は早く感じた。
Kさんは話題が豊富なので母も気が紛れただろう。
Kさんが帰ると私は雑誌に目を通しながら、母と料理のことを中心に話をした。
私が兄の作ってくれたカレーの具が少ない話をしたら、バラ肉をよく炒めてその脂で野菜を炒めてカレーに入れればいいと母は言った。
それから雑誌に出ていたレシピについても話をした。
母は昼食の時、私がいないと食欲が出ないと言ったので、今日は夕食も病院にいることにした。
父には悪いが寂しさにも慣れてもらわないとな。
母は夕食はお粥半分、おかず3分の1くらい食べてくれた。
マイタケの天ぷらも2つ美味しいと食べていた。
昨日よりだいぶ食欲が戻ったので本当にほっとした。
食後ニュースとフレンドパークを見た。
フレンドパークは母の好きな番組なのですごく楽しそうに見ていた。
そんな母を後にし、私は19時半病室を出た。
帰りにスーパーに寄った。
昨日マクロビオティックのレシピで美味しそうな豆乳とバナナのプリンが出ていたので、母に作って持っていこうと思ったのだが、マクロビオティックで使う材料が手に入らなかった。
米飴、糸寒天。。。。近所では買えないのかな?
2005/06/13 22:47
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6/12 副作用慢性化
2005年06月12日 (日) |
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放射線による副作用は慢性化してきているようだ。
常に食道にむかつきがあり私が昼前病室に入るととても具合が悪そうだった。
昨日から食事が少ししか摂れなくなっていた為、今日は11時から点滴が入っていた。
今日も血糖値を測ったとのこと。
昨日は異常なしだったが今日はどうだったろう。
毎日測ると言うことは日々変わるものなんだろうなぁ。
少しも悪くなっていませんように・・
昼食が運ばれてきた。
食欲は全くなかったが、AHCCを服用する為にお粥を4分の1くらいは食べてくれた。
それと炊き合わせの人参を一つと持っていったジャガイモとわかめのみそ汁を飲んだ。
母は大部分残してしまったので残りは私が少し食べた。
その時Hさんがお見舞いに来てくれた。
元気になったらみんなでカラオケに行ったり旅行に行こうと声をかけてくれた。
母も楽しみにしている様子だった。
本当にそんな日が来るといいなぁ、心からそう思う。
食後テレビを見た。
のど自慢を見てから噂の東京マガジンのやってTRYを見ていた。
母は料理が好きなので、番組を見ながらも私にあれを作ったらいい、あれにこれを入れるといい、入院中も色々アドバイスをしてくれた。
テレビを消すとまもなく二人とも昼寝をした。
15時くらいまで昼寝をし、母がトイレに立った時目が覚めた。
AHCCを飲む時間なので昼にでたプリンに混ぜて食べてもらう。
そのあといただいたグレープフルーツゼリーを食べた。
おいしいと言ったが二口ほどしか手をつけなかった。
その後は日本テレビでやっていた世界の怪奇現象・大追跡スペシャル4を見ていたが母も私も途中居眠りばかりしていた。
母が今日はお父さんと一緒にご飯を食べてあげたらと言った。
2日連続私は夕食時も病院にいたので父を不憫に思ったようだ。
私は父より母と一緒にいたいのが本音だが、父もあまり心臓が強くなくしかも精神的にも弱い人なので今日は母の言うとおりにさせてもらうことにした。
兄がいつもいてくれたら私は夕食時も母と一緒にいられるんだけどなぁ。
でも父の夕食の時間も病院と同じ18時と決まっているから、兄が近くに転勤させてもらえるにしても、18時に帰宅するのはちょっと無理だろうなぁ。。
17時頃母がトイレに立った。
戻ってきたとき、少し歩く?と聞いたが、フラフラするから止めとく、と言った。
17時半ちょっと前、私が病室を出るときも母はベッドの上で私を見送った。
家に着くと父がお風呂にお湯をはっていたが、栓がしっかりしまっておらず全然水が溜まっていなかった。
しかも怠そうにソファにうなだれて座っている姿を見て、もっとしっかしてくれよ、と思ってしまう。
夕食時、父はイライラするからたばこの本数が増えたとかそんな話をするもんだから、私はカチンと来てしまった。
「今はお母さんが一番辛い思いしてるんだから、願掛けのつもりでたばこ止めてみたら??お父さんがたばこ止められたらお母さんすごく喜ぶんだから。それにKさんはもう絶望的なような話をするけど、私とお兄ちゃんは諦めていないんだからね!」父に少し強い口調でそう言う。
父は胸に貼る禁煙できるシートのようなものがあるらしい(皮膚科で処方される)のだがそれを貼ってみるか、そう言った。
夜Kさんがメロンを2つ持って来てくれた。
まだ固かったので2つとも仏壇に供えた。
Kさんと母のことや、亡くなったKさんのだんなさん・弟さんのことなど色々話をした。
Kさんは何とか落ち着いて退院できるといいねと言ってくれたが、でも水が溜まり始めたらもう1ヶ月は持たないからね、そう言われ私はドキッとしてしまう。
Kさんに癌性心膜炎の話しはその時点ではしていなかったのだが、実は心臓の周りに水が溜まり始めてると私が言うと、そう・・・と暗い表情になった。
私はますます奇跡を信じるしかない情況に追い込まれた。
母に奇跡を!!鹿児島のおばちゃん(亡くなった母の姐)、お母さんを助けてあげてください!!!
今ブログをを書いていてふと思った。
先日自然が写っている写真集などを持っていったがイマイチ喜ぶ様子がなかった。
そうだ、母は料理が好きなのでそれに関する本や情報を揃えてみよう。
やっぱり興味のあることじゃないと何を話しても関心を示さないもんね。
しかも元気のない時だから特にそうだよね。
Clara、アドバイスありがとう!!
2005/06/12 23:36
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6/11 放射線副作用の対処法
2005年06月11日 (土) |
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今朝4時頃お茶を飲んだところ、また食道が燃えるように熱くなったとのこと。
朝食時までもそれを引きずり、しかもパン食だったため余り食べれなかったそうだ。
9時半、今日休みの兄と父がお見舞いへ行った。
兄より病院から電話が入り、あさりのおつゆが食べたいと母のリクエストがあった。
11時前父と兄帰宅。
私は11時半頃あさりのおつゆ、ぶどう、プリンを持って病院へ向かう。
私は母に、いきなり水分を摂ると食道が熱くなるのかもしれないから、お粥やプリンを食べてから水分を摂るように勧める。
昼食は和食だったのでお粥が出た。
まずお粥にAHCC1包混ぜ食べてもらう。
あさりのおつゆはおいしいと飲んでくれたが、おかずはほんの少ししか手をつけなかった。
持っていった葡萄もほんの数粒食べただけだった。
食後の副作用が心配だったが朝のように強い症状は出なかった。
やはり水分を単独で摂るのがまずいようだ。
今日はコスメの魔法がないので食後はNHKを見ていた。
途中義経を見ながら二人とも寝てしまった。
看護士が午後の検温を聞きに来た。
その時食事が食べれないことを相談する。
お粥は全粥のままで、おかずを5分粥にしてもらうことにした。
具合良さそうなら少し散歩でもする?
私は母に声をかけた。
母はちょっとめまいがするからやめとくと答えた。
3時頃母がトイレに立った。
戻ると少し歩こうかなと言った。
庭園までいけるほどではなかったので、病室のある階をぐるりと一周した。
戻るとお茶が飲みたいというので、先にプリンにAHCCを混ぜ食べてもらい、それからお茶を飲んだ。
少しムカムカする症状が出たようだが強い症状はなかったので安心した。
夕方NHKで「世界を駆ける日本料理」を見た。
魚を裁くシーンを見て、私が上海の家にいた鯉に関するエピソードを話すとはははと笑ってくれた。
母が笑ってくれると私も嬉しい。
だけど私は人を喜ばせるのが下手なのでほとんど沈黙している。
20日頃から母の妹が来てくれることになっているが、叔母は話が面白いので母も気が紛れるだろう。
私はなんでこんなに話題に乏しいんだか・・・自己嫌悪。
18時夕食。5分粥のおかずは明日からなので普通の夕食が出た。
いつものようにお粥にAHCCを混ぜ先に食べてもらう。
炊き合わせの人参は全部食べたが、他は少し手をつけるに留まる。
食後は少し気分が悪そうに食道をさすっていた。
大丈夫?と聞くとちょっと気持ち悪いが大丈夫だと言った。
19時10分頃、そろそろ行くねと母に告げる。
母ははみがきするついでにとベッドを立ってくれた。
今日はエレベーターの前までは見送りに来なかった。
エレベーターを待つ間、洗面台に立つ母を見ていた。
乗り込む前振り返ると母の姿はもう見えなかった。
家に着くと明日以降のおかずの足しにと兄がカレーを作っていてくれた。
おかずがあれば少しでも母と一緒にいれる時間が増えるので助かる。
「お兄ちゃんどうもありがとう。」
2005/06/11 22:53
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6/10 AHCCの副作用!?
2005年06月11日 (土) |
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午前中買い物と図書館に行って来た。
買い物では母に何か作って持っていく時の為に良い調味料を買いそろえた。
油はオリーブ油、醤油は3年間農薬を使わず栽培された大豆を使ったものを買い、塩は藻塩と呼ばれる天然塩を買った。
天然塩はよくないと書かれたサイトもあったが精製塩よりはマシだろう。使いすぎなければいいかなと思っている。
買い物の後図書館へ。
なかなか人を喜ばせる本が見つからない。
時間がなかったので、とりあえず「幸せがどんどんふくらむ本」他2冊と、母に見せようと自然が写っている写真集を借りた。
おととい辺りから食道の辺りが熱くなると言っていた母。
昨晩20時頃、夜寝る前の薬とAHCCを同時に服用したところ、食道がかなり熱をもち、気分が悪くなったと言う。
看護婦さんを呼ぶ寸前であったと。
今日私が昼頃行くと母はその話をした。
私はAHCCは食品だから副作用はない、それは放射線の副作用だからと必至で説明する。
最後の望みのAHCCを絶対断つ訳にはいかないのだ。
私はスープやプリンに混ぜてもいいって言うから、取りあえず半分だけお粥に混ぜてみる?と言った。
母は半信半疑の様子だったが、私の提案を素直に聞いてくれた。
持っていったゆばのおさしみもおいしいと食べてくれた。
食後は心配だったが、何も症状が出ずほっとした。
母もお粥に混ぜれば全然大丈夫だねと納得してくれた。
2時半頃残りの半包をプリンに混ぜて食べてくれた。
3時半にリニアックに呼ばれ、今日もちょうど一時間前に服用することができた。
4時頃持っていったメロンを一口だけ食べる。
間もなく担当医師が状態を見に来てくれた。
母は食道が熱くなることを説明していた。
医師は私に「お薬のことでご質問いただいた件でちょっといいですか」と私を連れだした。
母は変に思っていないか?
そうだ、副作用のある点滴のスケジュールを聞いていたと言おう、咄嗟にそう思った。
医師は抗ガン剤の名前・副作用・期間などを書いた紙を渡してくれた。
現在使用している抗ガン剤は「ナベルビン」
投与は1日目と8日目のみで21日間を1クールとする。
一回目の投与後、血液に異常は認められなかったとのこと、それを聞きひとまずほっとした。
次回は来週の火曜日、27日で1クールが終わるが副作用の情況を見て2クール目の内容を決めるという。
情況がよければ4クールする場合もあるそうだ。
副作用がひどければ1クールでうち切り、放射線治療のみになるとのこと。
それと昨日聞いた心臓周りの水についても再度尋ねる。
「癌性心膜炎」の可能性が高いそうで、これにかかると抗ガン剤・放射線治療終了後も退院できないという。
そして最悪の場合、余命数週間であるとも・・・
西洋医学ではこれが限界なのだろう。
もうAHCCにしか希望は残されていないのだ。
AHCCがなければ私は医師から話を聞かされるたびに絶望の淵に追い込まれていただろうが、0.1%の可能性でもすがる物があればそれを拠り所にすることができる。
AHCCは私の精神安定剤の役目も果たしてくれているのかもしれない。
医師は週末は治療がないので外泊してもいいと言ってくれた。
母は喜ぶだろうと思ったが、酸素をつけているが大丈夫かと聞くと、「あ、酸素つけてるんでしたねぇ、じゃあちょっとはずしてみましょうか」と言った。
病室へ戻ると母の様子がおかしい。
さっき食べたメロンのせいか、また食道が熱を持ち少し気持も悪いという。
そんな中ちょうど医師がやってきた。
医師に情況を説明すると、放射線の副作用ですねぇ、と我慢するしかないような内容の話を母にした。
医師は体内の酸素を測った。
結果は100%。
はずしても大丈夫だし、外泊しても良いといったが、母は息苦しいからつけていたいし、外泊もしないと答えた。
医師が出ていくと、母は自分でも今週末外泊できるかなと思っていたが、こんな情況じゃ自信がないと言った。
私は医師から退院できないかもしれない話を聞いていたので、母に「でもこれからもっと副作用がひどくなるかもしれないから、帰っておけばいいのに」と何度か言ったが、全く聞く耳持たず。
母は2ヶ月で退院できると信じているので、今無理に帰らなくてもいいだろうと思っているのだろう。
気分が落ち着いてくると母は少しお茶を飲んだ。
するとまた食道が熱く焼けるような症状が出てしまった。
夕食直前だったので、母はごはんは食べたくないといった。
仕方なく私が母の夕食に手をつける。
すると気分がよくなってきたようで、3分の1くらいのお粥にAHCCを一袋混ぜて食べてくれた。
付け合わせの人参とジャガイモも一口ずつだが口に入れてくれた。
夕食後副作用は起こらなかった。
最初にお粥を食べておくといいのか?
液体が一番副作用を誘発するのか?
夜の検温を聞きに看護士がやってきた。
看護士に食道の話をするとあまりひどいようなら放射線科でお薬を出してもらえますから言って下さいねと言われる。
夜寝る前にも薬を飲まなくてはいけないので、その水が食道を刺激するのではと心配だったが、19時半、私は病室を後にした。
母は今日もエレベーター前まで送ってくれたが、昨日の様に休憩室で見送ってくれることはなかった。
外はもう真っ暗だったからかな・・。
外からはよく休憩室が見えるので、私は何度も振り返って母の姿を探してしまった。
家に着くと注文したAHCCが届いていた。
今回は5箱頼んだ。
定価は1箱(33包入り)18900円だが、1箱11000円で売ってくれるお店を見つけたのでまとめ買いしておいた。
1日4包ずつ飲めば5箱は40日でなくなる。
それに活性水素カプセルが一ヶ月で29000円かかるので、金銭面では楽ではないが、西洋医学に限界がある以上、もう頼りは免疫療法しかない。
時間もないので出来る限りのことはしなければ。
そう言いながらも本当はあとサメ軟骨なども追加したいのだが、これもかなり高価なものだそうで躊躇してしまうのは事実・・
躊躇している暇はないのに、こんな時にもお金の計算をしなければいけないのが情けない・・・
2005/06/11 00:48
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免疫療法
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6/9 心膜に水
2005年06月09日 (木) |
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10時前から点滴、11時頃私が病室へ行くとちょうどそれが終わるところだった。
テーブルに野菜ジュースやヨーグルトがたくさん入った袋が乗っていたので、どうしたの?と聞くと、昨日私とすれ違いにAさん夫婦がお見舞いに来てくれたとのことだった。
間もなく点滴終了、はずしてもらうと同時に、リニアックに呼ばれB1へ降りる。
待っている間、ちょうど1時間ほど前にAHCCを飲んだことを聞きほっとする。
この病院のリニアックはいつ呼ばれるかわからないので、一時間前にピッタリ飲むのは難しいのである。
母は昨晩くらいからAHCCを飲むと食道が熱くなると言った。
放射線の副作用の為、食道に水がしみることがあると聞いていたので、その影響かもしれないねと母に話した。
照射の前に軽く診察を受け聴診器を当てていただいた。
少し待ち時間があったが、その間に昨日の日本×北朝鮮のサッカーの試合の話しなどをした。母も日本の勝利を喜んでいた。
3回目の照射中、一人の看護婦さんが私の隣りに座り「毎日来ていらっしゃるんですか?」「お母さん表情が明るいからいいですね」などと話しかけてくれた。
私は胸のリンパ腫が小さくなって少しでも楽になれば・・そんなことを話した。
照射終了後、レントゲンの指示があったため一階へ。
あっという間に終わり病室へ戻る。
戻るとテーブルには昼食が置いてあった。
朝父が釣り仲間からもらったカサゴを煮付けてくれたのでそれと、Kさんが午前中持ってきてくれたポテトサラダ、母のリクエストの厚焼き卵も一緒に出した。
カサゴは小さかったが一匹全部食べたし、病院食と他に持っていった物も少しずつだが手をつけてくれた。
母の残した病院食の残りは私が食べた。
前日に患者がどれくらい食べたか報告してくれれば残りは付き添いが食べることに許可を得ていた。
食後の楽しみは「コスメの魔法」である。
前作もちょうど帰国中だったため母と一緒に楽しく見ていた。
コスメの魔法が終わるとNHKの番組を2時半くらいまでみた。
担当医師が来た、エコーを撮るとのこと。
エコーはベッドで寝たまま受けた。
終わる頃、医師は心臓の近くに少しお水が溜まっているようなんでちょっと見せていただきました、と言った。
私はその言葉を聞いてガクッときた。
母は、あぁそうですか、とあまり気にしていない様子に見えたが実際はどうだったんだろう。。
母は医師に咳はあまり出ないが、今日はすこし声がかすれると話した。
医師が病室を出てから私は胃の辺りがムカムカしてきた。
昨日は好転してるような気がして私も明るく帰宅したのだが、水が溜まっている話を聞いた途端、母に奇跡は起こらないのか、母は本当に死んでしまうのか、、悪い想像ばかりが頭を過ぎる。
あとで医師に話を聞こうか・・でもただでさえ最悪の状態なのに、追い打ちをかけるような悪い結果は聞きたくない。。そう思った。
がっくりしながらもイスに座り頭を壁にもたげたまま少し眠った。
母は私に卵がいっぱいあるならかに玉にすればいいとか、花は元気か、Tさんからもらった植物は大きい鉢に植え替えた方がいいかも、などそんな話をした。
私はトイレに行き、帰りにナースステーションに担当医師が見えたので声をかけ情況を聞く。
心臓の周りに水が溜まり、これが増えると心臓を圧迫し危険であること、でも増えずにそのまま最後まで過ごせる方もいるとも言った。
先日のMRの結果はと聞くと、脳に一カ所転移が見られたとの答え。
ただし今は胸のリンパ種の治療が先なので、それが一段落したら脳へ転移した腫瘍の治療するというのだが、それはこの病院ではできないのだと言った。
私は脳の転移については少し覚悟をしたいたのでそんなにショックは受けなかった。
AHCCが奇跡的に効けばそんな治療は受けずに済むだろうと思っているせいもある。
しかし奇跡が起こらなければ、そこまで治療してもらわなくてもいいという気持もあった。
母に重い負担をかけるような治療はさせたくない。
そして昨日・今日受けた点滴は抗ガン剤ではないことを知り、なんだかわけがわからない。
私は医師に現在使っている抗ガン剤の種類や今後の日程などを紙に書いて教えて欲しいと頼んだ。
病室へ戻ると母はベッドを起こしていた。
母は私に早く帰っていいよと言った。
私はおかず(昨日の残り)がいっぱいあるから、今日は何も作らなくていいんで大丈夫と答えた。
戻った後も私は暗かったと思う。
母を少しでも明るい気持にさせてあげたいのに、私がこんなんじゃ全然ダメだ、人を元気にしてあげる人間になりたい・・・・
明日その種の本でも探してみよう、午前中に図書館にでも行ってみようかなと思う。
17:30 病室を出る。
母はトイレにいくからとエレベーター前まで送ってくれた。
急死の可能性もあると言われているため、これが最後になるのでは、この瞬間の母の顔を胸に焼き付けなければと思ってしまう。
奇跡を信じつつもこんなことを考えてしまう自分がすごく嫌だ。
エレベーターのドアが閉まった途端に目に涙が溜まった。
涙をこらえ駐車場への道を歩く。
もしかしたらと思い母の病棟がある階のガラス張りの休憩室に目をやると、遠いので確かではないが母が私を見送っていてくれていたようだった。
私は車の近くまで来たとき手を振った。
母はそこまでは見えなかったのか、振り返さなかった。
母がガラス窓から離れていくのを確認し、車のシートに座ると私は泣いた。
2005/06/09 22:55
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母の様子
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6/8 今日一日
2005年06月08日 (水) |
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抗ガン剤・放射線治療2日目
9:30より抗ガン剤投与。
今日は1本のみ1時間で終了。
15:20 放射線治療。
5分ほどで終了。
朝6:30頃父が犬3匹散歩に行ってくるからとわざわざ私を起こす。
散歩の途中細長い種類の竹の子3本もらったと、また寝てる私を起こしてそういう。
7:30頃 Kさんに竹の子の湯がき方電話して聞いてみるか、とまたわざわざ私に言う。
電話したが結局Kさんは電話に出なかったため、Tさんに電話し家に湯がきに来て欲しいと頼んでいた。
全く何を考えているんだか・・・
母に竹の子を食べさせてあげたいのはわかるが、すぐ近所でもない人をわざわざ呼びつけなくても・・・
父は自分は母の為に色々考えているということをみんなにアピールしたいようだ。
犬の散歩も私がなかなかいけないから、自分が行ってあげてるということを強調したくてわざわざ寝てる私を起こしてそう言うんだろう。
この人は一人じゃ生きていけないな・・・と私はつくづく思った。
「今日はお父さんが病院に行くからおまえは休んでろ」と父が言った。
「なら、午前中抗ガン剤投与があるから午前中だけ行ってくれる?私は午後から行くから。」と父に頼む。
父は9時過ぎに家を出た。
9時半頃Tさんが来てくれ、竹の子をゆがいてくれた。
おかずも3品持ってきてくれて、すごくありがたかった。
Tさんがその場で電話するとKさんも来てくれた。
Kさんは自然卵を持ってきてくれた。
竹の子が柔らかくなったので、乱切りして薄味つけで煮た。
おかかをかけ二人に出すとおいしいと食べてくれたのでほっとした。
私、料理あまり得意じゃないから・・・(汗)
母のことについて3人で話をしていると間もなく父が帰ってきた。
副作用もなく無事に点滴が終わったと聞きほっとした。
父は母に竹の子と前日庭で穫れたじゃがいものことを話し、それなら竹の子とジャガイモを煮付けて持ってきてと話したらしい。
竹の子だけでもう味付けしてしまったから、今日は竹の子だけ持っていって明日ジャガイモ持っていくよと私がいうと、今日両方持っていくってお母さんに言ったんだから、持っていかないとだめだと父は言う。
私は母はそんなに食欲があるわけではないから2品も食べると病院食が食べれなくなるからダメだよと言ったのだが、父はでもお母さんに言ったんだからと譲らない。
一悶着していた時、家のすぐそばで車事故が発生。
Kさんと父が見に行く。
私はそろそろ支度をして病院に行かないと、母の昼食に間に合わないのでそれどころではなかった。
父の話を思い出して母が楽しみにしているかもしれないのでやっぱりジャガイモを急いでふかした。
持っていく物を準備して、外に出ていた隣人に穫れたジャガイモをおすそ分けし、事故を見ていた父とKさんに出かけてくるからと告げる。
車の事故は大事故ではなかったが、一人の運転手が腰を打ったらしく念のため救急車で搬送されて行った。
病院に着くと母はちょうど食事中であった。
急いで竹の子とまだ温かいジャガイモを出す。
母は薄味だけど美味しいと竹の子を全部食べくれた。
ジャガイモは一緒に持っていったバターをつけて食べた。
(本当はバターは食べさせたくないのだが・・)
母は昨日より調子良さそうであった。
咳もあまり出ていないとのこと。
母には言わないがAHCCが効いているのではと期待してしまう。
すると母が病院の薬を飲んでいる間はもったいないからこれ(AHCCと活性水素カプセル)飲まなくてもいいんじゃない?と言い出した。
私は、退院してからも勿論飲むけど、今免疫をつけないとカビがどんどん増殖しちゃうんだよ。最初が肝心なんだから!と言った。
食事が済み、母と一緒に「コスメの魔法」を見た。
見終わるとテレビを消し、厚焼き卵の作り方やぬか床の話しなどたわいもない話をした。
卵焼きの作り方や母の依頼は忘れないよう手帳にメモった。
午後の放射線治療が何時になるかわからなかったが、14:30頃AHCCと活性水素カプセルを服用してもらう。
結局放射線は15:25分くらいだったのでほぼ一時間前に飲めてよかった。
まだ2日目だからかもしれないけど、今のところ副作用もなく安心している。
母は私がいるから安心して静養できると言ってくれた。
私は「うん」とだけ答えた。
もっと気の利いた返事をしてあげればよかったとすぐ後悔した。
私にはどうもそいう点が欠けているのである。
17:15 病室を出る。
母はやはり今日は調子がよいのか病室の外まで送ってくれ、エレベーターに私が乗るまで見ていてくれた。
いつまでもこうして母の姿を見ていられますように・・・
17:25 家に到着。
父が食べる野菜のおかずがなかったので急いで野菜炒めとほうれん草のおひたしを作りみそ汁の具を足す。
Tさんにいただいたおかずもあったので昨日とは打って変わって、なかなかのおかずのレパートリーだったので、今日はマルチビタミンは飲まなかった。
2005/06/08 23:55
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6/7 抗ガン剤投与・放射線治療開始
2005年06月08日 (水) |
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今日から抗ガン剤投与と放射線治療が始まる。
抗ガン剤についてはかなり副作用があるのではと心配だ。
昨日のことを心配して朝から父がやってきた。
昨晩のおかずに買ったメンチカツも一緒に持ってきた。
母はおいしいとそれをひとつ喜んで食べた。
私は密かに「免疫力が下がる食べ物・・・」と思ってしまったが、母はおいしいと言っていたし、父の気持ちも嬉しかった様子だったので黙っていた。
父は普段あまり母と話しをしない。
だからお見舞いもに来てもすぐ帰ってしまう。
だからと言って気持がないわけではなく逆のようだ。
母を見ていると辛いといつも家では言っている。
担当医師が○時くらいから治療の点滴を始めますからと言いに来た。
AHCCは抗ガン剤投与の1時間ほど前に飲むと副作用を抑える効果があるので飲んでもらった。
昨晩から続いていた水分補給の点滴が終わると同時に抗ガン剤投与が始まった。
1本目 10:15〜10:45 リンデロン4mg 塩化ナトリウム100mlなどと書かれた点滴だた。
2本目 10:45〜11:00 母のトイレ介助をしていたためメモできなかった。
3本目 11:00〜13:13 ソルメドーロール? 1000ml
4本目 13:13〜 アミノアサート?1000ml
3本目の点滴をしながら昼食を摂る。
私には美味しそうな昼食に見えたが、母は一口ずつしか手をつけなかった。
あんまり無理をさせてもどしてもいけないので、進められない。
残りは私が食べたかったが、どれだけ食べたか看護士さんがチェックしていると母が言うので、ちょこっとずつだけ箸をつけるの留まった。
昼食が終わると夕方のMRに備えて飲食禁止となった。
4本目の点滴中、13:45頃Kさんが琵琶を思ってお見舞いに来てくれた。
母は検査があるのでまだ食べれない。食べろというので先に私が一つ食べた。
14時、リニアック(放射線治療)に呼ばれ車椅子でB1へ降りる。
Kさんも一緒に放射線医師から説明を受け、2週間後くらいから食道がが焼けて水がしみるだろうなどと副作用の説明を受ける。
母が胸に印をつけに行く間、別に少し医師から話を聞き、ここで骨にも転移していることを知らされた。
(恐らく父と兄は昨日担当医から話を聞いたと思われる)
意外に冷静に私はその話を受け止めた。
母はまだ生きているし、話しもできるし、今はただ少し治療や検査に疲れているだけ。
母が数ヶ月後いないだなんてピンとこないというか、ただ現実逃避しているだけなのかもしれないが・・
AHCCで奇跡的に癌を克服した人たちがいる。
それは本当に本当にごくわずかな確率で体にぴったりきた人なのだと思う。
しかし私は母がそのわずかな内の一人である可能性をまだ捨てていない。(兄もそうである)
胸に印をつける間、私は昨日から停めている車が心配だから見てくるとKさんを送りがてら一緒に駐車場へ向かった。
Kさんはさっき父がKさんの家へ行き大泣きして帰った話をした。
母が死に、私は上海へ、兄も車で1時間ほどの所で暮らしているので、独りぼっちになってしまうと泣いたそうだ。
Kさんは3年近く前、癌で夫を亡くしているので、これからが大変なのに今泣いていてどうするのか、私に心配をかけるな、と自分の経験上からも色々話をしてくれたそうだ。
これから泊まりが入るようになれば自分が休みの時は変わってあげるんだからとも言ってくれた。
私の体も気遣ってくれてありがたい。
Kさんは本当に頼りになる。心から感謝している。
リニアックに戻るとちょうど母が胸に印を付け出てきたところだっった。
これからすぐ放射線が始まる。
母も緊張しただろう。私も心配になる。
照射が終わると母はケロっとした様子で出てきた。
何も感じなかったという。
まだ4本目の抗ガン剤も投与したままだったので心配したが、今のところ副作用もなく安堵感で目が潤んだ。
病棟の看護士さんが迎えに来てくれ、一緒に病室のある階へ戻ると、すぐ整形外科の外来へ言ってくれと指示がある。
今度は母と二人で1階の外来へ。
行くだけでいいと言われていたのに、すぐに名前を呼ばれなかったので、ベルを鳴らして受付の人に早めにお願いしますと言う。
間もなく名前が呼ばれ診察室に入ると、レントゲンに股関節の手術をした付近と以前ヘルニアの手術をした付近が黒く写っているというのでそれを調べるという。
若い医師だったが母に質問する口調がちょっと私にはきつく感じたのでむかついてしまった。
しかも診察室に入るなり、カルテがない、カルテがない、と言っている。
この医師は母の今の病状を知っているのか???
その医師からレントゲンの指示を受け放射線科へ。
名前を言うと、MRじゃないんですか?と聞かれる。
経緯を説明すると、ちょっと病棟に確認しますと連絡をしている。
あーだこーだ言っている内に、4本目の抗ガン剤が終わりそうだったので、急いで病棟の看護士さんに降りてきてもらい点滴を止めてもらう。
すぐレントゲンをとり、整形の外来へ戻る。
またあの感じの悪い医師が手術痕であることなどを説明していたが、それを聞いていて彼の話し方にまたむかついて来たので私は母の後ろでその医師を睨んだ。
彼はそれに気づいたのか少し落ち着いてしゃべりだした気がする。
とにかく奴には思いやりがかけている。
投書してろうか。
しかしあまりにむかついたので医師の名前も覚えてこなかった。
(断っておくが、この病院の他の医師・看護士・職員はみんな優しく素晴らしく教育されていると思う)
引き続きMRの検査。20分ほどで終了。
MRの前に酸素をはずしたのだが、再び装着しようとするとどうもボンベに酸素が入っていない様子である。
この時初めて気づいたのだが、最初からこの酸素入ってなかった気がするのである。ずっと水のブクブクなかったし・・・
病棟のある階へ戻ると今日の担当の看護士さんがエレベーターの前へ迎えに来てくれていた。
私がいなければこの看護士さんがずっと母について回ってくれたんだろう。
でも私がいても一緒に回って欲しかった。
心細い箇所がいくつもあり、私はかなり疲れてしまった。
母も自分も疲れたであろうに、私のことを気遣ってくれた。
私はもちろん疲れたなどとは母には言わない。
飲食の許可が出たのでAHCC・活性水素カプセルを飲み、さっきKさんが持ってきてくれた琵琶を剥いて母が1つ、私が2つ食べる。
ベッドを起こさないで座った状態で食べていたので、プルプルするというから、具合が悪いのかと心配したが、腹筋がプルプルしただけらしかった。
食べ終わると母は疲れたのだろう、すぐ横になった。
私は帰ろうかなと思っていたところへ担当医師が様子を見に病室を訪れた。
医師は胃潰瘍予防のお薬を出しますからと言った。
私は明日も点滴治療があるのかと質問をした。
明日・あさっては小さいのが1本あるだけですと答えた。
今日のように4本あるのは次は一週間後とのこと。
末期患者にこのようなスケジュールの組み方はどうなのかとかなり疑問に思ったので医師に話そうかどうか迷ったが、疲れたのでそのまま帰ってしまった。
帰りの車の中で、抗ガン剤投与のスケジュールや点滴の名前・かかる時間をきちんと紙に書いてもらうよう、明日お願いしようと思った。
犬のフラリアの薬を飲ませるのが本当は前日だったので帰りがけにもらって帰った。
家に付いたのはちょうど18時。
我が家は18時が食事の時間なのである。
ご飯は炊いている途中だったが、しかし全く食事の用意はされておらず、食卓で父は缶チューハイを飲んでいた。
何にも用意してない・・・・私はどっと疲れが出た。
もし父と母が反対の立場で、母が家にいたなら、母は食事の準備をしてくれていただろうし、洗濯物もたたんで、お風呂も掃除してくれていただろう。
母が病に伏せて父がショックを受けている気持はわかるが、何もかも私がしなくてはいけないのか・・・とかなり悲しくなってしまった。
夕食を済ますとパソコンを立ち上げた。
夫が会社からMSNのチャットで私を呼ぶ。
昨日PCを立ち上げていなかったから心配したようだ。
母のことを簡単に説明し、父のことも言いたかったが、心配かけたくないのでそのことは言わなかった。
お風呂に入った。
私はお風呂で一番泣いてしまう。
涙がすぐ流せるからちょうどいいのだ。
父は頼りにならないし、兄は土曜日まで休みはないし、私一人ですべてやらなくちゃいけないの???
そんなことを考え泣けてきたが、イヤ、一番辛いのは母なんだ、もうこうなったら元々母子家庭だったと思って私が頑張るしかない。
こんなことで泣いたりしてお母さんごめん、とまた泣きながらそう思ったのだった。
夫が帰宅しチャット再開。
先日オーダーしたクッションの写真や可愛い3姉妹(猫)の写真をで見せてもらて癒される。
会社の株や靴をオーダーしたことなどを聞き、少し気が紛れた。
兄から電話が入る。
兄は今日の母の様子を聞いた。
私は検査が大変だったこと、付き添いは眠れない、父に対する不満を兄にぶちまけてしまったがこれでちょっとすっきりした。
兄は今日そっちへ帰ろうか?と言ってくれたが、大丈夫だと断った。
昨日あまり寝ていないので今日は早く寝るつもりだったが、ブログを書いていたら夜中の2時になってしまった。
ダラダラと一日のことを書いてしまって、こんなブログ誰も読む気はしないだろう。
私はこれは自分への回顧録のつもりで書いている。
母との思い出を一日も一瞬たりとも忘れたくない為こんな形になってしまうことをもし読んでくれる方がいるならお許しいただきたい。
(私は実に忘れっぽい性格であるため)
2005/06/08 02:10
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経過
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6/6 迷走神経障害
2005年06月08日 (水) |
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いつもの様に午後から母の元へ行った。
いつもの点滴が落ちが悪く6時間もかかってしまい辛そうにしていた。
今日は食欲もないと言う。
AHCCが全く効いていないのかと不安が過ぎる。
16時半から今後の治療方針について説明をもらうことになっていた。
母が怪しまないよう先に母を含め父・兄・私の4人で担当医師から真菌症の治療法について説明を受けた。
本当はその後帰る振りをして別の階で医師から説明を受けるようにしていたのだが、母がシャワーを浴びるので私に手伝って欲しいから、お父さんとお兄ちゃんは先に帰ってと言う。
なので医師の話は父と兄の二人で聞いてもらい、私と母は浴室へ向かった。
向かう途中父と兄が担当医師とエレベーター近くで話しているのが見えたので、一体何をしてるんだとヒヤヒヤしてしまった。
浴室内は換気扇が動いていない様子で悶々としていた。
私は脱衣所で待っていたのだがそこにいても中からすごい空気圧を感じる。
一度母の背中をこすりに中に入った。
15分も入っていなかったと思うが、浴室から出ると母は貧血の様な症状を起こし座り込んだ。
母はよく立ちくらみする人なのでちょっと休めば大丈夫かなと私も安易に考えてしまったのだが、一度立ち上がったがやっぱりだめだと蹲ってしまったのですぐ脱衣所の呼び出しボタンを押した。
最初は一人だった看護士さんが次第に4人ほど集り車椅子を用意してくれた。
この時点で母は上半身のパジャマと下着はかろうじて着用していたが、下のズボンはまだはいていなかったので、一人の看護士さんが、
「このままじゃ余りにもドキドキしちゃうんで、何かで下隠そうか」と冗談っぽく言ってくれた。
私がバスタオルで母の下半身を覆った時だったか、母は突然真っ青な顔を斜め真上に上げ、てんかんの様な症状を見せた。
看護士は急いで病室へ!と母を車椅子に乗せ、血圧が急激に下がってると叫んだ。
担当医師もすぐかけつけた。
医師は迷走神経障害を起こしていると走りながら言った。
私はこのまま母がいなくなってしまうのではと不安になり、一人の看護士さんに、兄に電話してくださいとお願いした。
しかし母はベッドに横になるとすぐ意識を取り戻し、顔は真っ青だったが普通に話をし始めた。
私は経った今起こった事態が一体何だったのかという不安と、母は死んでないという安堵の気持から涙がボロボロこぼれてしまった。
一人の看護士さんが「娘さんびっくりしちゃってるから声かけてあげて」と母に言ってくれた。
私は数秒の間にとっさに判断し、自然な気持から「もうお母さん、死んじゃうかと思ったじゃん!」と私は母の顔をさすりながら言った。
もし母が自分の本来の病気を知っていたら、この言葉は絶対言わない。
母は自分が治る病気であると信じているから言ったひとことだった。
母はみんなに心配かけて悪かった悪かったと何度も言った。
実は今日朝の体温が本当は37度あったのに、今日のお風呂がなくなると嫌だからと母はウソの体温を報告していたのだった。
お風呂に入る前は36.7度だったので大丈夫かなと私が素人判断したのもいけなかったのだ。
私が看護士さんに「髪の毛がベタベタして気持ち悪いからどうしても入りたいといって・・」と言うと、「介助付で洗髪だけというのもできますからね」と優しく答えてくれた。
間もなく水分補給の点滴が入った。
看護士さんが血圧を見に来てくれた。
血圧は正常値、酸素濃度がかなり落ちていた。
間もなく改めて担当医師が病室を訪れ、胸にあるものが神経を圧迫しておきてしまたと説明してくれた。
医師が病室を出る前ちらっと私の顔を見た。
私は母に今日泊まった方がいいか聞いてくるねと医師を追いかけるように病室を出た。
私は医師に脳にも転移してるのか?と聞くと、医師はその点も含めて明日MRIを撮りますと答えた。
MRIは予定通りのことだとも言った。
私はこのことが原因で今日どうのこうのってことはありえるか?と聞くと、気管支をリンパ腫が塞いでいる以上常に急死の恐れはあると言った。
それは最初の告知の段階で聞かされているので特に驚愕する情報ではなかった。
翌日から抗ガン剤投与と放射線治療が始まることになっているが、こんな事があっても予定通り進めると言う医師の冷静さに少し驚いた。
医師は泊まってもいいですよと言ってくれ、看護士にベッドの話をしてくれた。
介助人のベッドは一日だけはつけられない・・・などと奥から看護士達の話し声が聞こえる。
後で連絡しますからと言われ、私は病室へ戻った。
母に言うと、もう大丈夫だから帰っていいと何度もいう。
やだ、泊まるよ、と私がいうと「なんで?」と言う母。
私はこの母の一言に妙にどきっとしてしまった。
私が医師に何か言われたと思ったのだろうか、少し怪しんでいると咄嗟に感じた。
私はこんなことがあったんだから心配に決まってるじゃんと答えた。
そういえばお兄ちゃん来なかったね、と私は言った。
母にもお兄ちゃんに電話するように看護婦さんに頼んじゃったよと言ってあったのだ。
看護士さんがが連絡をしなかったのだろうと思い結果的にそれでもよかったが、万が一の時はこんなことじゃ困るなとも思った。
先程あったことを説明し、今日は泊まるかもしれないと兄に電話しておいた。
2回目の血圧測定、今度は酸素濃度も大分正常に戻ってきていた。
次の血圧測定で問題なければじゃあ帰るよ。と私は言った。
側にいた看護士さんにその旨伝えると、しばらくして別の看護士さんが「隣のベッド使っていいですから」と言いに来た。
話が噛み合っていなかったが、それならと母もOKしたのだった。
(母は4人部屋の窓側だが、ちょうどこの日母の隣の廊下側のベッドが一つ空き、緊急を要した母は通路側のベッドに寝かされたのだった。
私は元々母が使っていたベッドで一晩過ごせることになった。)
水分補給の点滴をしているせいか、母はトイレが近かった。
また歩いてトイレに行きフラフラするといけないので、今晩はベッドに寝たまま専用の容器で用を足さなければならなかった。
私は23時までテレビをつけていたが、消すと途端に眠くなった。
1時間も経たない内に母が自分で用を足そうとしている様子に気づいたので、すぐ起きて介助した。
母のベッドだけ明かりをつけていたのだが、母は明るいと眠れない性分なので、ライトにタオルをかけ明かりを暗く抑えたりした。
その少し前から向かいのベッドの患者さんが「イタタタタ」と小声を出して辛そうする様子が聞こえていた。
その人が寝返りを打つたび布団が動く音が気になり全く眠れない。
眠りにつこうとすると何度も何度も同じ光景が浮かび目を覚ましてしまう。
その光景は具体的に説明できないほど抽象的な物である。
その内その患者さんは看護士さんを呼んだらしく何やら二人で話をしていた。
母もそれに気づき目を覚ました様子だったので、ついでにトイレしとく?と話しかけるとそうだねと言った。
その後は私は3時間ちょっとは寝たようだった。
母はその間にも一度一人でトイレをしたとのことだった。
2005/06/08 00:24
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経過
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苦労した人生
2005年06月06日 (月) |
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母はよく「そんなに長生きしたくもないけど」と冗談交じりで言っていた。
股関節の手術後もそんなことを言うもんだから、私は「あと10年(80歳まで)は生きるつもりがあるから手術したんでしょ!冗談でもそんなこと言うもんじゃないの!」と答えたのだった。
母は長い間父のギャンブル癖、借金に